イスラエル・エジプト出逢い旅 『イスラエル編』
Israel, Egypt, Palestine & Cyprus
DEC,1993 - FEB,1994

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妻と出逢ったのは エルサレム。初めてのデートはパレスチナ難民キャンプでした。
I met her in Jerusalem ! Our first date was going to a Palestinian Refugees Camp.

【プロローグ】この当時、僕はアメリカ・サンフランシスコに住んでいた。学生向けの格安チケットを探し、何故かSFから一番安かった、英国航空 BRITISH AIRWAYS (ロンドン経由)でイスラエルのテルアビブ空港へ飛んだ。イスラエルは2回目なので、交通も宿探しも、大体要領は得ていた。空港からバスで、エルサレム新市街にあるバスターミナルへ到着。

譲れない聖地・エルサレム   旧約聖書の世界(約束の地)〜ユダヤ人について〜   妻との出逢い…

パレスチナ編(ガザ地区、ヨルダン川西岸地区)   イスラエル北部へ   移民の国・イスラエル と コシェル・フード





譲れない 3つの宗教の聖地 イェルサレム

 ←エルサレム オリーブ山
 Mt of Olives, Jerusalem


旧市街の南側に位置する。近くの門からは、キリストが十字架を背負って歩いた、『悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)』が、現在『聖墳墓教会』がある ゴルゴダの丘(『どくろ』という意味)まで続いている(註:カトリックとプロテスタントで 『ゴルゴダの丘』とする場所がそれぞれ違っているが、どちらもエルサレム市内にある)。

キリスト教の聖地。
  嘆きの壁 ⇒
 Western Wall, Jerusalem


古代イスラエルの最盛期、ソロモン王の時代につくられた神殿の西側の壁の一部。
多くのユダヤ教徒が、旧約聖書を読みつつこの壁に向かい、祈りを捧げている。

 ユダヤ教の聖地。


 ←岩のドーム
 Dome of the Rock, Jerusalem


イスラム教の開祖、預言者マホメットが昇天したとされる、大きな岩を覆うようにつくられている。
エルサレムはイスラム教にとっても、メッカやメディナと並ぶ重要な聖地。

イスラム教の聖地。

 岩のドームそのものには、このとき工事で網が掛かっていました。(この旅の1年半前の写真はこちら

 エルサレム旧市街は、大きく4つに分かれていた。岩のドームを中心に広がるイスラム教徒(パレスチナ人)の居住区、ユダヤ人の居住区、キリスト教徒の居住区、それにキリスト教の一派で古い時代にカトリックと分かれたアルメニア正教(アルメニア人)の居住区だ。
 エルサレムは微妙なバランスの上に成り立っているのがわかる。オスマン帝国統治時代は、今よりもずっと平和。共存出来ていたらしい。





旧約聖書の世界(約束の地)
イスラエルは九州ほどの大きさの国なのに、見所がいっぱいある。
特に『旧約聖書』縁の土地は、そのままイスラエル観光の目玉となっている。

一神教の流れと、イスラエル人(ユダヤ人)について
 イスラエル人は、旧約聖書では アブラハムイサクヤコブと続く系譜の子孫で、ヤコブ(彼の別名がイスラエル)の12人の息子たちを祖とする『12部族』から成り立っている とされている。先祖のアブラハムが、特別 神に対し敬虔であったため、神から「その子孫を星のように増やす」と“約束”され、また、「『乳と蜜の流れるカナンの地(現在のイスラエル国中部一帯とヨルダン川西岸地区)』という豊かな土地を与える」とも“約束”された(『創世記』)。

 ちなみに、「神に対し敬虔」とはどういうことかというと、当時の中近東ではエジプトもメソポタミアも多神教や偶像崇拝が主流だったが、アブラハムとその子孫(つまりイスラエル人)はひたすら 一神教で唯一神を敬い、偶像崇拝をしないことを守ろうとした。これが「(一神教の)神に敬虔・忠実」ということだが、これが意外と大変だったことがわかる。旧約聖書にも、イスラエル人たちが度々、他の異民族が行うのと同じように「金の仔牛像」などの偶像をつくり、偶像崇拝をして神の怒りをかったり、中東土着の多神教の神(バアル神など)を崇拝する人も現れ、イスラエル人の間で粛清が行われたり…。一神教を貫く上での苦労がいろいろと書かれている(数千年もこれを守ったことは奇跡に近いと思う。例えば、日本が古代から現在まで、あらゆる外来の宗教(仏教や儒教、キリスト教)を排除して神道一本で来れたか…ということを想像しても、わかると思う。一神教ならば尚更のことだったろう)。

 ともあれ、この「神に対し敬虔・忠実」であることによって神から選ばれ(旧約聖書中、神が「我が民」と呼ぶのはイスラエル人のこと)、神からカナンの土地を与えると『約束』されたことが、イスラエル民族がカナン(地理学的には『パレスチナ』)を自分たちの領土 とする根拠となっている。

 が、“神から与えられた土地”のはずなのに、ヤコブ(イスラエル)の12人の息子たちは、カナン地方の不作もあって、早くもその息子たちの代に、皆 豊かなエジプトへ移住してしまった(!)
 その後400年間、12人の息子たちの子孫(12部族)はカナンに帰ることなく、豊かなエジプト国内で爆発的に人口を増やす。特にナイル河デルタ地帯のゴセンという地域は、イスラエル人が人口のほとんどを占めるまでになっていた。当時エジプトは新王国時代(第18〜19王朝)に入っていたが、エジプト王家は、増え過ぎ かつ よく働き、エジプトの多神教を拒むイスラエル人を疎ましく思い始め、やがて露骨な差別政策を採り始めた。

 イスラエル人たちは、モーゼの指導の下、神の力によってエジプトにさんざ災いをもたらし、ファラオにも抵抗した(過越の祭りの始まり)。そしてついに、住みづらくなったエジプトを脱出したが、旅の途中で偶像崇拝などを行って神の怒りを買い、罰としてその後、シナイ半島の荒野を40年間もさまようことになる。

 エジプトを脱出し、シナイ山で『十戒』を授かったものの、イスラエル人たちは数十年間、シナイ半島の荒野をさまよった(『出エジプト記』)。ようやく“先祖アブラハムが神から約束された土地”「カナンの地」を目にしたそのとき、モーゼはこの地に入ることなく、息を引き取った。

 モーゼの跡を継いだヨシュアが全イスラエル人(12部族・約60万人)を率い、最初に攻略したカナン地方の街が、このエリコだった(『ヨシュア記』)。
  エリコ (ヨルダン川西岸地区)の遺跡跡⇒
  Jericho, West Bank of Jordan River


 ここでちょっと考えてみる。 つまり、イスラエル民族が長い間エジプトに住み、留守にしていた400年の間に、本籍地?であるカナンの地は、すっかり他の民族の居住地となっていたのだった(なんせ400年も留守にしていたのだから、仕方がない…)。だが、イスラエル民族のこの土地についての執着心はとても強かった。次々と異民族の街を攻略し、やがてカナン全土はイスラエル人のものとなる(もちろんこれで安定はせず、周囲の異民族、ペリシテ人、アンモン人、ミデアン人などとの小競合いは延々と続く)。旧約聖書では、「神はイスラエル人たちの信仰を試すために、約束の地に異民族を置いたままにした」と説明されている。

 こうして考えてみると、イスラエル人(ユダヤ人)は、19世紀末〜20世紀後半にかけてのパレスチナ移住、イスラエル建国に伴う、先住(?)民族のアラブ・パレスチナ人や周辺アラブ人との抗争(中東戦争)… と同じようなことを、古代にもしていたのがわかる。(あ、別にユダヤ人を悪く言う気は全くありませんので、念のため(^^;。むしろこれほどすごい歴史的一貫性を持った民族には、敬意を表したいと思ってるくらいです)


 ちなみに、『ユダヤ人』という呼び名は、イスラエル12部族の中でも最大の部族だった『ユダ部族(ヤコブの息子・ユダの子孫)』から来ている。12部族の中でも最大で、エルサレムベツレヘムなど重要な地域を治めていた。ダビデ王・ソロモン王もこのユダ部族の出身(その前のサウル王はベニヤミン部族の出身)。
 ソロモン王の死後、イスラエルはエルサレムを首都とする南のユダ王国(ユダ部族の王国)と、サマリアを首都とする北のイスラエル王国とに分裂したが、原因は、他の11部族を圧倒したユダ部族に対し、他の諸部族が反発して国を分裂させたからといわれている。イスラエル王国は200年後にアッシリアに滅ぼされた。ユダ王国は更に130年続いたが、バビロニアに滅ぼされユダ部族(ユダヤ人)はバビロンへ連れて行かれた(バビロン捕囚。約50年後、ペルシャのキュロス大王の時代に、エルサレムへ帰還することを許された)。

 つまり、現在のイスラエル自体すごく小さい国なのに、中央部と北部では歴史が違い、中南部のユダヤ人、北部のサマリア人 といった感じで新約聖書などにも出て来る。歴史的に、ユダ部族の方が主流だったため、その部族名『ユダ』が全イスラエル人を指すようになっていった。ちょうど、ネーデルラントの一州であったホラント州が特別強大であったため、ホラント(オランダ)が国名として世界に伝わったのと 同じようなものだろうか…。ちなみに、『ユダ』はイスラエル人に多かったごく普通の男子の名前で、当然ながら キリストを裏切った12使徒のユダとは、直接関係がない。
 ユダヤ人たちは、繁栄が過ぎた後もここイスラエルで、旧約聖書・律法を尊び、メシア(救世主)の出現を待ち望んだ。多くの預言者が現われ、やがてイエスの登場へと繋がって行くが、ユダヤ教ではいまだ救世主は現われていないことになっている。
 


←ヘブロンのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)
 なんと同じ建物の中に、モスクとシナゴーグがある。
 Synagogue in Hebron,West Bank of Jordan River.

 ヘブロンは、旧約聖書中、前述のアブラハムが住んだ街として知られる。アブラハムは、ユダヤ人の他、アラブ人の先祖であるともされている。

 アブラハムがもっとも長く住んだイスラエル南部のベエル・シェバにも行ったが、そこはもう砂漠の入り口。今でもベドウィン文化が残るところだった。家畜を売る市場もあった。 イスラエル人とアラブ人の共通の先祖とされるアブラハムは、今のベドウィンに近い生活をしていた。

 旧約聖書は、面白い。何が面白いかって、出て来る人たち(アブラハムやその子孫=イスラエル人)が普通の人たちだから面白いのだ。アブラハムはその信仰深さゆえに神から選ばれ、神と『契約』をしたが、王でも英雄でもない、ただの羊飼いの老人だった。 また、彼の子や孫、12部族の元になった12人の息子たちも、兄弟を騙して長子の座を手に入れる話や、弟を妬んで銀20枚で商人に売ってしまったり…と、実に泥臭いのだ。
 普通、世界中のどの民族も、自分たちの先祖の話は華々しく改ざんするものだと思うが、イスラエル人たちはそれをしなかった。 後の英雄・王たちの時代になってもそうだ。モーゼも人を殺しているし、ダビデ王は病気ともいえるくらい人妻好きだった。人間の愚かさがそのまま隠さずに書かれているのが、旧約聖書の面白いところだ。



塩分濃度25%。生物の住めない死海

死海近くのエイン・ゲディ Ein Gedi と
呼ばれる洞窟は、旧約聖書中、
ダビデがサウル王から身を隠すために
留まった場所として知られている。


死海 Dead Sea


マサダの砦跡 Massada

  ←死海近くにある、マサダの砦跡

 紀元1世紀、ローマ軍に徹底抗戦した一部のユダヤ人たちがいたが、彼らもついに敗れ、ここマサダの要塞(砦)で、婦女子も含めて全滅した。
 マサダには登ってみたが、険しい自然の砦だった。右写真奥には、この砦を持久戦で落とすためにローマ軍がつくった陣地の跡がある。

 そしてこの後、ユダヤ人たちの本格的なディアスポーラ(離散)が始まる。ヨーロッパ、中東、アフリカ各地に、ユダヤ人は拡散していったが、どこへ行っても、彼らイスラエル人の言語であるヘブライ語で書かれた『旧約聖書』を手放さず(註:『新約聖書』の方は、ほとんどがギリシャ語で書かれていた)、その『選民思想(神がイスラエル人を選んだという思想)』ゆえか、民族的アイデンティティを2000年間も保ち続けた。これは本当に、すごいことだと思う。
 『選民思想』はある意味、華僑の持つ『中華思想』と似ているかも知れない。ユダヤ人も華僑も、世界に拡散しながらもそのアイデンティティを保っているのは、そうした思想のお陰かもしれない。 
 ユダヤ人たちはヨーロッパでも、集まって『ゲットー』といわれる居住区に住んだりした。キリスト教のヨーロッパ諸国では、「ユダヤの民衆がイエス・キリストを死に追いやった」と解釈されていたため、差別・迫害を受けることになる。ユダヤ人たちの団結力が強いこと、自分たちこそが神に選ばれたという『選民思想』を持っていたこと、また、商売が上手な人が多く『ベニスの商人』のような強欲なイメージを植え付けられていたこと などが、その差別(や妬み)を助長していった(実際、金融業はユダヤ人が握っていた と言われている)。ユダヤ教の教義を頑なに守る熱心なユダヤ教徒たちの異色なスタイルも、そのイメージを増幅させた。

 東欧のゲットーには、教義に忠実で 黒づくめのコートと黒い帽子、揉み上げを切らずに伸ばし続けるユダヤの男性が多く歩いていた。彼らの一部はアメリカやイスラエルにも渡っているが、いまだに当時のイディッシュ語(東欧でユダヤ人たちが話していた言語)を話し、『コシェル』というユダヤ教にのっとった食事をしている。ニューヨークのブルックリンには、有名な東欧系ユダヤ人街がある(写真はこちら)。街中には揉み上げを伸ばし独特のスタイルを保った人たちが歩き、小学校のバスにも英語とヘブライ語で学校名が書かれ、コシェル・フードのデリやレストランが多くあった。『キッパ』というユダヤの丸い皿のような帽子を被った子どもたちが、元気よく遊んでいた。今や東欧の旧ユダヤ人街を訪ねるよりも、ニューヨークのユダヤ人街に行った方が面白いかも知れない。





妻 と の 出 逢 い …
(註:ここでの表現方法に関しては、一切責任を負いません(汗;)

 この旅行中 1993年12月中旬の夜だった。偶然見つけ、泊まっていたエルサレム旧市街 『ダマスカス門』近くの安宿 FAISAL HOSTEL に、同じように一人旅で来ていた若い日本人女性(バックパッカー)が、新しく入って来た。

 それまで旅先で出逢ったバックパッカーの女性たちが、概して『たくましい』 『強い』(^^; いかにも『タフ』そうなタイプなのに比べ、彼女は小柄で可愛らしく、華奢だった。 まるで、北米や西ヨーロッパでも旅してるような感じの女の子だったのだ。

 当時 中東やインドをバックパッカーで旅していた男性旅行者なら きっと同感してくれると思うが、あの頃(80年代後半〜90年代前半)に こんな地域(中東やら インドやら…)を旅してる女性たちは、ちょっと違っていた。

   「あ、日本人の男が バックパックかついで こっちに歩いて来るぞ…。
      来る 来る…。 段々近づいて来たぞ…。

          
あ…(−o−;、 女の人だった…(汗;)

 という感じだったのだ (ヨルダンで出逢った子は、例外的に可愛かったが…)。

 また、見掛けは一応女性でも えらく 性格がきつく、話してて気分悪くなるような女 とか…。

 旅がしやすくなった今でこそ、中東でも可愛いらしく(女性らしく)、性格もおだやかな女性が旅してる(らしい)。


 とにかく…  エルサレムの安宿のリビングで、
 「どこから来たんですか?」との僕の問いに、 「愛知県からです」と彼女は応えた。
 これが、僕と彼女(妻)との 最初の出逢い である。

 「こんなに か弱そうな子が、こんなところ(イスラエル)を 一人で旅してるなんて!(ToT)
 と 当時 感激し、大真面目に心配したものだ。

 その後、僕たちはエルサレム市内(旧市街やオリーブ山)を一緒に観光し、初めてのデートはヨルダン川西岸地区のパレスチナ難民キャンプへ行った。クリスマスの夜、聖地ベツレヘムのキリスト聖誕祭にも一緒に出掛け、イスラエル北部も一緒に周った。僕は、当時もやはり 安全とは到底いえなかったイスラエルで、旅行中 ずっと彼女を守っていた。 そう、悪い狼がいっぱいいる 中東・イスラエルで、僕は狼たちから、彼女を守っていたのだった。
 やがて 自分が狼になってしまい(汗;)、出逢いから1年半後に、僕たちは結婚式を挙げた。
  (ちなみに今 僕は、『子連れ狼』 というハンドルネームで呼ばれている)

 出逢いから早くも10年が経ち、その間 3人の子にも恵まれた。 そして、今言えることは…。

 「やっぱり彼女も 強い女性だった(ToT) ということだ。(おしまい)





イスラエル北部へ To Northern Israel
イスラエルは小さな国だが、見所が多い。北部は、ガリラヤ湖、カペナウム、ティベリアス、
ナザレ、カナ、カエザリアなど、キリスト教縁の史跡が多い。



 バニアス(ヨルダン川源流)にて。
Banias (the source of Jordan River)
イスラエル北部は、水源豊かで緑が多い。
 シリアからイスラエルが奪い、占領している ゴラン高原(右写真)に立つと、ここが要衝の地であることがわかる。水源もあるため、イスラエルはどうしても確保しておきたいらしい。

 まだ地雷がところどころ埋まっているため、立ち入り禁止区域が多い。



ゴラン高原 The Golan



アッコ 十字軍地下都市の跡
Subterranean Crusader's City, Acco
北部の地中海に面した港町 アッコ。





移民の国・イスラエル と コシェル
 イスラエルは移民の国だ。古代のディアスポーラ(ユダヤ人の離散)で世界中に散って行ったユダヤ人たちは、世界各地で土着し、土地の風習を身に付け、混血が進みながらもユダヤ人としてのアイデンティティを保った。歴史的にユダヤ人迫害が(主としてヨーロッパで)長く続き、20世紀のイスラエル国家建設の後、世界中からユダヤ人たちが移り住んで来た。

 イスラエルではバス・ターミナルのキヨスクなどでも、ヘブライ語やパレスチナ系住民のためのアラビア語新聞の他、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語などの新聞が、ごく普通に売られていた。テレビなど他のメディアも、各国語のものが充実していた。特に、この当時ロシア系ユダヤ人移民が急増していたようで、ロシアからのサーカスなども興行でイスラエルへ来ているほどだった。
 現在、ロシアからの移民たちが同じくロシア系移民を対象に販売を始めた 豚肉や豚肉加工品が、他のイスラエル住民から反発を買っているそうだ。ユダヤ教の教義には、食習慣まで細かく定められているものがあり(食の戒律を『コシェル』と呼ぶ)、熱心なユダヤ教徒はコシェルで認められていない(というより、イスラム教同様 忌み嫌われている)豚肉を、イスラエルで販売するのは許されない と考えている。

 コシェルはかなり細かい戒律で、これも旧約聖書から来ている。『旧約聖書』の中に、「子羊を その母の乳で煮てはならない」という部分がある。“そんな残酷なことはしてはいけない”という意味だろうが、コシェルではここから、食事中 『肉類』と『乳製品』を一緒に取ってはならない とされている。つまり1回の食事(夕食なら夕食)で、肉類とチーズなどが一緒に出て来ることはなく、『チーズ・バーガー』なんてとんでもない話なのだ。敬虔なユダヤ教徒は、肉類を食べた後のコーヒーにもミルクを入れないそうだ。
 ちなみにハンバーガーだが、これまたコシェルのため しっかり血抜きをし過ぎていて、なにやらパサパサな感じがする。この他、エビやカニも食べることが出来ない。イスラエルで食べたエビグラタンのエビも、ちゃんと かまぼこだった。


  ハイファはイスラエル北部の港町

 ここでキプロス共和国行きの国際線フェリーに乗り込んだが、乗船の際のチェックはかなり厳しかった。
 「旅行中誰と会ったか?」 「誰かに何かを渡されなかったか?」等々。

 パスポートにイランとかシリアとかのスタンプがぼこぼこ押されてあったため、厳しい尋問を受けた。僕だけ『別室』へ連れて行かれ入念なチェックを受けたが、やがてバッグからヨルダン川西岸地区で拾って来た「イスラエル軍兵士が投げてた手榴弾の安全弁」なんかが出て来ちゃったから さぁ大変。
 荷物・服装内部まで、全部チェックされたのだった。
(註:安全弁は既に危険なものでは無いので、後で返してもらいました)


ハイファのバハイ教寺院
Bahaii Temple, Haifa


この後、フェリーでキプロス島を経由し、エジプトへ行く。 Take a ferry boat to Egypt by way of Cyprus.


キプロス島編へ Cyprus


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